−篩(ふるい)を読む

 小一ヶ月前にシリーズ「ものと人間の文化史」のNo125=粉(こな)を読んだ。そのおり、次は「釣針」と決めたが、動物の骨を起源とする釣針の進化論に音を上げた。思案の末に三輪茂雄氏の、粉関連の三部作(粉、臼、篩)の篩を借りてきた。
 篩は本来、臼でひいたあとの「粉と実」を分別する道具。どこの家庭にもありふれていた。最近では、日常生活で「粉と実」をわざわざ分ける必要はない。分けたものを買ってくればすむから、篩のない家庭も珍しくはない。あっても用途は限定的だ。
 ところが、我々の周辺に篩にまつわる言葉は少なくない。「篩い分ける、篩い落とす、篩に掛ける」などなど。
 語源の篩(ふるい)に馴染みがうすい世代が、たえず「篩に掛けられ」、「篩い分け」られ「篩い落とされ」る現実は、さぞや不本意だろう。

 この本は最後のほうが「砂時計」にあてられている。砂を「篩に掛け」て「粒揃い」にしないと精度はおろか、機能停止に陥る。
 サウナなどで3〜5分計を見かける。上下を逆さにすると砂が流れ出す。見つめているだけで優雅に時が流れ、うっすらと汗ばむ。この間に、161万個(5分計)の砂粒が中央部のくびれ(蜂の腰)を通過する。
 「万が一」と言うが161万粒の中で一粒、少し大きいのが混じると砂時計は停止してしまう。「優雅の中断」である。蜂の腰の穴の径に見合った適度な砂粒を161万個封印し、それを安価に提供する技術に驚く。人類史と寄り添うように発展した「篩」に敬意を表したい。
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